2026年エシュコル掲載メッセージ



  • 2026/03/01
  • 新しい始まり / 希望

神が備えた見えざる道を歩む

三月を迎えると、冷たい風の中にも確かな春の気配が感じられるようになる。固く閉じていた蕾はふくらみ、土の下では新しい命が静かに芽吹きの時を待っている。目に見える変化はわずかであっても、確実に季節は前へ進んでいるのである。

人生にも同じような時がある。状況は変わらず、先が見えないように思えることがある。しかし、水面下ではすでに新しい備えが始まっていることを、私たちはしばしば後になって知るのである。思いがけない出会い、予期せぬ出来事、遠回りに見えた経験。それらが一本の道としてつながっていたことに気づく瞬間がある。

神は歴史を偶然に委ねてはおられない。時代ごとに御計画を進めながら、確かな目的へと導いておられる。人の目には荒野のように見える場所にも、神は道を備えられる。乾いた地にも流れを起こされる。人の力では切り開けない場所にこそ、神の御手は働くのである。

私たちはしばしば、自分で道を作らなければならないと考える。しかし信仰とは、自ら未来を設計することではなく、すでに備えられている道を発見し、その一歩を踏み出すことである。道が見えてから歩くのではない。神が備えておられると信じるからこそ歩み出すのである。

三月は、新しいことを始めるのにふさわしい時である。大きな決断でなくてもよい。心を神に向けること、祈りを始めること、聖書を開くこと、礼拝の場に足を運ぶこと。それらは小さな一歩に見えて、神の御計画の中では大切な前進である。

未信者の方にとっても、人生は決して偶然の連続ではないという視点は希望となるはずである。今は意味が分からない出来事にも、やがて光が当てられる時が来る。荒野と思える場所が、後に振り返れば新しい始まりの地点であったと知る日が来るのである。

神は今も新しいことを始めておられる。その働きは静かであっても確実である。春の芽吹きがそうであるように、神の備えもまた、見えないところで進んでいる。 この春、それぞれに備えられた道を信仰によって歩み出したいものである。その歩みそのものが、神の栄光を映し出す証しとなるのである。

  • 2026/02/01
  • イエス・キリスト / 福音

人生を照らす光の正体とは?

親が敷いてくれたレールに乗って生きてきた子ども時代から、大人になり、自分の人生は自分で切り拓いて行かなければならなくなった時、まるで宇宙空間に一人放り出されたような孤独を感じたことがあった。そのような青年期を経た後、人生の目標を定め、その目標が正しいと信じ、その実現に向けて生きてきた。しかし、人生の試練に直面するたびに、その目標は本当に正しいのだろうか、自分を幸せにしてくれるのだろうか、と不安になる。それでも、その道を歩み続けるしかない。この世の少なくない人たちがそのような中を必死に生きているのではないだろうか。筆者は33歳の時に、まさに五里霧中と言える人生に一筋の光が差し込んだ。進むべき方向を求めてあれでもないこれでもないと思いあぐねていた探究の日々に終止符が打たれ、生きるべき道が明確に示された。その時、将来への不安が吹き飛んでいき、確信を持って、平安の中を歩む人生のスタートを切ることができた。それから約8年が過ぎ、その確信は益々強められ、手応えを感じながら生きることができている。

  33歳の時に感じた光の正体は、イエス・キリストというお方だった。このお方は、霊の目に覆いがかかっていた筆者に介入してくださり、その覆いを取り除けてくださった。そして、真理の光で照らしてくださったのだ。といっても、何か超自然的な現象が起こったのではない。私たちの目には偶然とも思える出来事の連続の中で、そのように導いてくださったのだ。これを神の見えざる御手、あるいは、摂理という。この世界を造られた創造主なる神は、私たち一人ひとりを見えざる御手をもって導いてくださっている。そのことに気づいて神の示す方向に向かうか、そうでないかで、行き先が全く異なる。神は全ての人をイエス・キリストを通して、ご自身の元に立ち返るように招いておられる。その招きに応答したものには祝福が約束されている。

聖書は、神の元に帰る「道しるべ」である。聖書に書かれている神の御言葉に従って歩むことで、私たちは神に近づくことができる。かつて神が雲の柱、火の柱となってイスラエルの民の先頭に立って約束の地へと導かれたように、聖書の御言葉が私たちを神の御許へと導いてくれるのだ。御言葉を学び、御言葉に従って生きることが、私たち人間に与えられた祝福の道である。そのことに気づいたのが33歳の時だった。聖書には、私たち人間がどこから来て、どこに行こうとしているのかが書かれている。今までの人類歴史がそうであったように、これからの未来も聖書に書かれている通りに進んでいく。

  聖書は、まもなくイエス・キリストが再びこの世に戻ってくると教えている。その時、イエス・キリストを救い主として信じているか、そうでないかで、人類は二分される。前者は神の国に、後者は火と硫黄の燃える池に行くことが定められているのだ。この厳粛な真理を前にどのように応答するかが今、全人類に問われている。まだイエス・キリストを信じていない方は、今、このお方を信じる決断をし、永遠の祝福を受け取ろうではないか。信じる内容は次の3つである。
①イエス・キリストは私たちの罪のために死なれたこと。
②イエス・キリストは死んで墓に葬られたこと。
③イエス・キリストは三日目によみがえられたこと。
この3つを信じ、イエス・キリストは今も生きて私たちを救うことができるお方であると信頼した者は、全ての罪が赦され、永遠のいのちが与えられる。そして、将来、完璧な理想郷である神の国に入ることができる。是非、共に神の道を歩み、平安と喜びの中を生きていこう。

  • 2026/01/01
  • イエス・キリスト

光は闇を駆逐する

新年明けましておめでとうございます!
年の初めに、この世界の「はじめ」に思いを馳せたいと思います。創世記1章1節に「はじめに神が天と地を創造された。」という言葉があります。この「はじめ」とは、被造世界が生まれた時のことを指しています。創造主なる神は、物質世界が全くないところに、「ことば」によって次々と物質を生み出し、この世界を創造されました。私たちにとっては、この「はじめ」こそが全てのはじめだと思いがちですが、更なる「はじめ」があるのです。それが、ヨハネの福音書1章1節の「はじめ」です。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という御言葉にある「初め」とは永遠の昔のことです。被造世界が出来るより前、神しか存在していない「はじめ」のことです。

創造主なる神は、何かによって造られることなく、ご自身の力によって永遠の昔から存在しておられます。そして、その神は三位一体の神です。「父、子、聖霊」の3つの位格(人格のようなもの)において存在している唯一の神です。その第二位格の子なる神のことを、この聖句では「ことば」と表現しています。「ことば」なる神が、ことばによってこの世界を造られたのです。この「ことば」こそ、命の源であり、私たちを照らす光です。この「ことば」なる神こそ、神が人となられたイエス・キリストです。

イエス・キリストは、いのちを造られたお方であり、このお方のうちにいのちがあるので、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えることがお出来になります。イエス・キリストは、世の光として、この世の闇を駆逐されます。

私たちが生きている今の世界を見ると、闇が支配しているように見えるかもしれません。しかし、それは一時的なことであり、光であるイエス・キリストが再びこの地に来られた時に、闇は消え去ります。私たちはイエス・キリストにあって圧倒的な勝利者とされていますから、恐れる必要はないのです。

イエス・キリストという希望の光に目を向けた時、私たちの心から恐れは消え去ります。それは、真っ暗な部屋に電気をつけた時に、闇が消え去るのと同じです。イエス、キリストを心に迎えた者は、そのように恐れから解放されるのです。2026年も皆様の心の中にイエス・キリストという光が輝き、祝福に満ちたものとなりますように。

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